2001・8月 北アルプス紀行

第2日・・・槍の穂先〜西鎌尾根〜双六小屋
登山日・天候 2001年8月24日(金)・曇(一時霧) 
行程 槍沢ロッヂ出発(05:00)〜ババ平テント場(05:30)〜大岩沢〜五郎沢〜大曲り〜三ツ又 〜中ノ沢〜水沢(07:30)〜横沢〜播隆窟(08:10)〜殺生ヒュッテ前(08:40) 〜槍岳山荘(09:30)〜槍ヶ岳山頂(10:25)〜槍岳山荘(11:20)〜(西鎌尾根) 〜樅沢岳山頂(16:05)〜双六小屋(16:35)・泊 
槍ヶ岳ピークを目指し、槍沢沿いにひたすら高度をかせぐ。
当初は、槍ヶ岳登頂後、槍岳山荘で1泊する予定であったが、比較的早い時間に登頂を 果たせたこと、また、西鎌尾根沿いに双六小屋まで3時間足らずで行ける(後に地図の 読み間違いと判明)ということで、尾根伝いに樅沢岳を経由し双六小屋へ。
結果として、休憩を含め約11時間30分の山行。名実ともに全行程中の最大の山場 となった1日だった。
 


まだ薄暗い中、槍の穂先を目指してロッヂを出発。
30分ほど歩き、水場のあるババ平テント場へ到着。ロッヂの弁当(五目寿司)を広げ 朝食タイム。

ナナカマド
♪エ〜デルワイス(薄雪草)


ガスに隠れて見えない槍の穂先(大槍)を目指して、ひたすら進む。
道は次第に傾斜を増し、まだ見えぬ大槍が徐々に近づきつつあることを感じさせる。
播隆窟を過ぎた頃からようやくガスが晴れ、大槍がその姿を表す。 驚きと感動の一瞬!

播隆(ばんりゅう) 1786−1840

江戸時代の念仏僧。1823(文政6)年、飛騨の笠ヶ岳(2898m) 山頂から望んだ槍ヶ岳の姿に心打たれ登頂を決意。紆余曲折の末、1828 (文政11)年に槍ヶ岳初登頂。その後計5回登頂し、信仰の山としての槍ヶ岳開山に 尽力した。
左画像は、その播竜が登山時の根拠地とした岩屋「播隆窟」(別名"坊主の岩屋")。4度目の 登山の時はここに53日間こもり、念仏を唱え続けたといわれる。


大槍直下の槍岳山荘に到着。食料その他の物資はヘリで輸送している。
槍岳山荘URL ... http://www.mcci.or.jp/www/yarigatake

ガスが晴れるのを待って、本山行のハイライト、大槍登頂を開始。


槍(やり)ヶ岳/3180m

日本第5位の高峰であり、その特徴的な「槍型」の山容が多くの岳人に愛されてきた、 穂高連峰と並ぶ北アルプス南稜の盟主(兼ランドマーク)。
前述の播隆による初登頂ののち、1878(明治11)年に「日本アルプス」の名付け親で ある英国人ウィリアム・ガウランド、1892(明治25)年に「日本アルプスの父」 英国人宣教師ウォルター・ウェストン、そして1902(明治35)年 の小島烏水、岡野金次郎による登頂が続き、日本の近代登山の幕開けを飾った。

(画像は三俣峠より槍ヶ岳遠望〜01.08.25)

「そのユニークな岩の穂は見紛うことがない。ひと眼で認め得るのである。
どこから見てもその鋭い三角錐は変わることがない。
それは悲しいまでにひとり天をさしている。」

深田久弥「日本百名山〜槍ヶ岳」より




ピーク時には上り下りに3時間かかるという大槍登頂だが、今回は混雑もなくスムーズ だった。
無論、先日の陶ヶ岳での登攀練習も大きく貢献しているはずである。
しかし、山頂はあいにくの天候。周囲は再びガスに覆われ360度のパノラマは望めなかった。
しばらく晴れ間を待っていたが、天候回復の気配はない。諦めて慎重に下山を開始。

槍岳山頂で昼食後、西鎌尾根を伝って双六小屋まで移動。
途中では雷鳥に3度(計7羽)遭遇した。

雷鳥(ライチョウ)

ライチョウ科に属し、成鳥の翼長約20cm。夏の間は全身ほぼ褐色の羽毛に覆われているが、 冬場は一変して白色となる。
中部山岳(日本アルプス)及び白山山系のハイマツ帯に生息。また、北海道には亜種の エゾライチョウが分布している。

国指定の特別天然記念物。


(左)西鎌尾根(大槍直下)。急坂を慎重に下る。
(中)樅沢(もみさわ)岳山頂(2754m)。双六小屋手前の最後のピーク。
(右)樅沢岳山頂にて、雲の間から槍ヶ岳が顔を出す。


双六小屋にやっと到着。長い1日が終わった。
双六小屋URL ... http://www.sugorokugoya.com/

食事を終えて即、就寝(飲用水は豊富だが風呂はない)。

1日目へ
3日目へ
4日目へ