山名/標高 火野(ひの)山/705m
登山日・天候 2007年4月28日(土)・晴
行程 駐車場(09:15)〜中城跡(09:35)〜尾根道〜姫路丸〜一升水〜山頂・本丸跡(09:50-09:55)〜(折り返し)〜常仙寺跡〜駐車場(10:30)
旧大朝町と千代田町の境界にある山で、戦国時代には山頂部に山城が築かれていた。1550年に毛利元就の次男吉川元春が入城した際、山頂の「本丸」をはじめ「二の丸」「池の段」「姫路丸」など、数十の砦が立ち並ぶ大規模な城塞として整備されたと伝えられる。
現在、山名の正式な表記は「火野山」となっているが、古文書には「日野山」「日の山」「日山」とも表記される。これは、元春が敵対していた尼子氏の居城「月山富田城」を意識したものといわれる。地元ではいまも「日野山」が用いられることが多い。
吉川元春は、元就三男の小早川隆景と共に「毛利両川」と称される武将。学問にも秀で、尼子氏討伐の陣中において元春自身が書写した「太平記」全40巻は、原作に最も近く、ほぼ全巻が揃っていることから、古典文学研究の貴重な資料とされ、国の重要文化財に指定されている。通称「吉川本」。

(寒曳山・天狗岩からの眺め。)

旧・千代田方面から国道261号線を北上、旧・大朝町との境にある中山峠を越えると間もなく道路左手に「火の山城跡」の標識と案内看板が現れる。
ここを左折して舗装された林道に入り、200mほど進むと「駐車場」の看板と数台分の駐車スペースがある。
駐車場から林道を奥へと進む。すぐに常仙寺跡と日山城跡のコースが分岐するが、常仙寺跡は下山後に立ち寄ることにしてそのまま直進。
案内板には「徒歩約40分」とあるが、のんびり歩けば1時間くらいかかりそうな道のりだった。
林道の舗装はすぐにとぎれ、道も次第に細くなってくる。標識は少ないが、一本道で踏み跡もしっかりしているので迷うことはない。
雑木林の中を流れる小川に沿って続く道。
日差しが明るく、新緑がきれいで鳥や蛙の声も弾んでいるように聞こえる。
途中何度か流れをまたいだ後、右手の斜面に取りつき高度を稼ぐ。渓流は見る間に眼下へ、水音も聞こえなくなった。
左手に深く切れ落ちてゆく谷を見送り、ジグザグにつけられた急坂を上ると平坦な「中城跡」に飛び出した。汗を拭き、息を整える。
日山城跡の説明板が置かれた中城跡。元春の時代に行われた日山城の要塞化は非常に大がかりで、山の地形にも手を加えたものであった。
この中城跡にも、数百年を経て木々の生い茂った中に今もはっきりそれと分かる土塁が残っている。
中城跡の先で道が二手に別れる。木に巻かれたテープに書いてある字は読みにくいが、右に上っているのが「尾根道」、直進が「沢道」とある。上りでは岩が露出した尾根道を行くことにした。
木に遮られているが、枝越しに展望が楽しめる尾根道を5分ほどで「姫路丸」。その先で、沢道と再び合流し山頂に向かう。
本丸跡へと続く道の途中、木にくくりつけられた「一升水」の看板。すぐそばに登山者がぶら下げたらしい「一升水↓20m」の案内札もある。
落ち葉が積もって滑りやすい斜面を慎重に下ってみると・・・一升水とおぼしき管からは一滴の水も出ていなかった。この冬の雪不足で枯れてしまったのだろうか。
一升水から5分ほどで、山頂「本丸跡」に到着。錆びた案内板があるだけで、山頂を示す標識の類は何もない。
ガイドブック(1998年発行)には「見事な眺望」と書かれていたが、さすがに10年たつと様相が変わり、周囲の木々が丈を伸ばして展望を遮っていた。現在は北側に若干の眺望を残すのみである。
山頂から、北側の眺め。
寒曳山(左)、唐代山・雉子の目山(右)などが枝越しにうかがえるが、これらの展望がなくなってしまうのもそう遠くないことのように思われる。
来た道を折り返して下山。駐車場手前で、往きに見送った「常仙寺跡」に立ち寄ってみた。
この寺は、毛利元就により謀殺された吉川興経(おきつね)の菩提所と伝えられ、石垣に格子を巡らせた門の向こうには、その興経の墓所と、興経の愛犬を埋葬したと伝えられる犬怩ェ残されている。