山名/標高 障子(しょうじ)ヶ岳/427m
登山日・天候 2008年12月7日(日)・晴ときどき曇 
行程 味見峠旧道入口(12:40)〜登山口(13:10)〜砦跡〜上野コース分岐(13:30)〜山頂・本丸跡(13:40-13:55)〜(折り返し)〜味見峠旧道入口(14:40)
この障子ヶ岳は京都、田川の郡境に位置し、戦略上、要衝の地にあるため、この城をめぐって幾度か攻防が繰り返されてきました。障子ヶ岳城は、1336年(建武3年)足利尊氏の命によって、足利駿河守統氏が築城し、その後の度重なる戦乱で城主は次々と変っています。この城は、豊臣秀吉の九州平定に伴い、1586年(天正14年)黒田孝高の陣に下り、その翌年には豊臣秀吉も入城したとされています。その後、この城は1615年(元和元年)に徳川家康の一国一城令によって廃城となったとされています。
昭和63年12月 勝山町教育委員会(山頂説明板より抜粋)

障子ヶ岳城址は一時放置され雑木が生い茂っていたが、昭和63年春に「障子ヶ岳の城攻め」と銘打った清掃作業により回復したと上記説明板に記載されている。その後は定期的に整備されているようで、草に覆われた山頂は視界を遮る立木がなく360度の展望。また、登山道には桜や紅葉が植えられている。
登山道は、みやこ町(旧・勝山町)と香春町の境界となる味見峠のほか、それぞれの町から別ルートも開かれている。味見峠は、県道64号線の味見トンネルが開通するまで利用されていた旧道の最高所だが、みやこ町側の道路は荒廃が進み、一部に道路の陥没や崩壊箇所もあるので通行には十分注意。香春町の旧道は途中に公園が整備され路面状態も良いので、こちらから上ることをおすすめする。

みやこ町(旧勝山町)から香春町に抜ける県道64号線「味見トンネル」手前の上り坂の途中に「障子ヶ岳登山口」の小さな標識があり、トンネル開通(1981年)前の味見峠を越える旧道が分かれている。
今回は、旧道に入ってすぐの路肩に駐車し、旧道を歩いて上ることにした。標識によると、山頂までの距離は3.8km。
旧道は何度もカーブしながら高度を上げ、現在の県道やトンネルの上部に続いている。勾配は緩やかで、路面は未舗装ながら道幅が(登山道としては)広く歩きやすいが、進むにつれて荒廃してくる。陥没や路肩崩壊している箇所もある。前日の雪で路面はぬかるみ、所々に雪が残っている。周囲は概ね植林帯で陽当たりが悪く、寒い。
道が平坦になり、ヤブの向こうに香春岳が顔を見せるとまもなく味見峠。登山道は旧道から左に分岐し滑りやすい急坂となる。道は相変わらず広く、よく整備され標識も立てられているので迷う心配はない。
上りの途中、持参したガイドブック(1994年発行)にない分岐点があった。「勝山宮原」への下山ルートとなっており、荒れた旧道をパスする新ルートかもしれないが、詳細は不明。
急坂が終わり、アップダウンを繰り返す主稜線に入る。山頂の途中には「砦跡」の標識が立てられた小ピークが2ヶ所あり、往事をしのばせる。ガイドブックでは砦跡からの見晴らしの良さが写真入りで紹介されていたが、その後生長した木々が視界を遮り、現在の展望はあまり良くない。
周囲には紅葉や桜が植えられているが、ほとんどの葉は地面に落ち、その上に前日の雪が残っていた。
山頂の城跡が近づくと、道の上に車止めが何本も厳重に立てられていた。
味見峠の荒れた旧道ではオフロードバイクとすれ違うことがあったが、これはバイクが山頂へ進入してくるのを防ぐためのものだろう。
登山道はこの先で東麓の上野地区からの直登コースと合流し、山頂に向けて急な上りとなる。
長い上りではないが、地面を覆い尽くす濡れ落ち葉で何度か滑りそうになった。
山頂は、建物を取り払った跡をそのまま残したという感じ。遺構の中はよく整備され立木がなく、枯れ草をまとった二の丸、北の丸跡が寒風にうちふるえていた。
標高427mの山頂は本丸跡で、三等三角点が据えられている。周防灘から筑豊まで、遮るもののない360度の眺望を楽しみ、来た道を折り返した。

香春岳(左)から権現山・皿倉山(右奥)まで、長大な稜線を一望。牛斬山から福智山に延びる縦走路にはまだ雪が残っていた。

龍ヶ鼻、貫山(左)から周防灘にかけての眺め。画像では分からないが本州(宇部・小野田?)もかすかに見えた。

国東半島(左奥)から視線を右にやると、真向かいに大きく飯岳山(大坂山)がそびえ立つ。英彦山は後ろに隠れて見えない。