山名/標高 横山(よこやま)城跡/350m
登山日・天候 2007年10月7日(日)・晴のち曇
行程 下峠バス停(09:15)〜上峠登山口(09:35)〜仏峠(09:50)〜山頂(10:00-10:25)〜金ヶ峠登山口(10:30)〜金ヶ峠登山道入口(10:45)〜下峠バス停(11:25)
横山城跡は、益田市西部の桂平町と柏原町の境にある中世の山城跡で、山頂に標高350.2mの三等三角点が置かれているが、地図上は無名峰である。
別名を黒谷城ともいう横山城は、鎌倉時代に関東からこの地の地頭として下ってきた菖蒲五郎実盛が築城したといわれ、戦国時代には益田氏と津和野の吉見氏との間で領有権を巡って争奪が繰り返された後、益田氏の支配下に置かれた。
1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いに敗れた益田元祥が須佐に移った際、当時の横山城主であった喜島備後守宗勝も後を追って長門国に移り、横山城は廃城となった。
登山道は、桂平町の上峠(かみがとう)と金ヶ峠(かねがとう)、柏原町大久保からの3コースがあり、このうち金ヶ峠のコースは途中から車両通行止め(2007.10現在)。上峠のコースは中腹まで荒れ気味で標識類が全くない。市の文化財として今後の整備に期待したい。

益田市内から県道14号線を萩市(田万川町)方面へ。県境の1kmくらい手前に桂平小学校があり、手前の三叉路を左折すると、津和野町に抜ける県道17号線。100mほど先にある「下峠(しもたお)」バス停から横山城跡へ出発。
バス停の先で、県道を左に分かれ市道に入る。道路の上に木の枝が覆い被さり、路上にどんぐりが散らばっていた。
数百m進むと、上峠集落に入る。道の向こうにそびえるのが横山城跡。
集落を過ぎると道は山のかげに入り、あたりは薄暗くひっそりしてくる。念のためクマよけの鈴を身に付けた。
間もなく「進入禁止」の看板が立ち、道路は二手に分かれる。まっすぐ進むと未舗装の砂利道で、奥には田畑や人家もあるようだが、登山口は右手のやや広い道(こちらも未舗装)の奥にある。道の上には草が生い茂り、竹やぶと杉林に囲まれて陰鬱な感じ。
数百mで行き止まりとなるが、山へ向かって右に踏み跡が分かれている。これが登山道だが、これといった標識もないのでガイドブックに記された文章だけが頼りである。いちおう、道の状態は書かれたとおりとなっている。
取りついてみると、踏み跡はそれなりにしっかりしている。標高の低い山なので、トラバース気味にどんどん上り、喘ぐ間もなく仏峠に到着。
南の柏原町大久保から上ってくる登山道と合流する仏峠には、その名のとおり石地蔵が祀られている。
祠の脇に標柱が立ち、峠から城跡までは526mとのこと。尾根を伝う道はやや急坂だが、広く歩きやすい。
上り坂の途中には少し広くなった場所があり、「ひゃこり場(別名篭立場)」とある。「ひゃこる」とは「大声で呼ぶ」の意。
坂道には50mおきに小さな標識が立てられ、残り距離を示している。下峠・上峠から仏峠までの標識類のなさ(少ないのではなく、無い)から、えらい変わりようである。現在は大久保コースがメインの登山道なのだろうか。
展望のない樹林帯を50m刻みに淡々と上ってゆくと、金ヶ峠からの登山道と合流する平坦な場所に出る。「益田市指定文化財 横山城跡堀切」の標柱が立ち、階段がもういちだん高い本丸跡へと続く。
近くに壊れかけた小屋があり、外観からたぶんトイレだと思われたが、ドアを開けてみる気になれなかった。
山頂は草原となっており、少し高くなった場所に最後の横山城主、喜島備後守宗勝を顕彰する石碑が建っている。その後ろにひっそり三等三角点。
下峠バス停を出発したときは青空が広がっていたのに、山頂に着いたら一面の曇り空で、遠望もあまりきかない。北西に見えるはずの石見空港や益田市街地は霞んでしまっていた。

(左)北西にそびえる高山と行者様。(右)南東の三子山の奥に安蔵寺山の影がうっすら。
堀切から金ヶ峠への広い登山道を下りはじめて5分と立たないうちに舗装路の端に出る。
駐車スペースや案内板が整備され、なるほどこれでは上峠から上る人は減るはずだなと思いながら道路を下ると・・・県道17号線からこの道路への入口は通行止めとなっていた。何だこの道は?