山名/標高 黒河内山(くろこうじやま)/424m
魚切山(うおきりやま)/370m
狐ヶ峰(きつねがみね)/355m
伽藍山(がらんやま)/291m
登山日・天候 2013年5月12日(日)・晴
行程 小出登山口(08:30)〜隊中様(08:55)〜鎧峠(09:10)〜黒河内山(09:45-09:50)〜天狗岩山(10:05)〜魚切山(10:30)〜陶峠(10:45)〜馬頭観音(11:05)〜狐ヶ峰(11:20)〜伽藍山(11:40)〜明神溜池(12:10)
山口市黒川と鋳銭司の間に横たわる山塊の最高峰が「黒河内山」。三角点名は「荒神山」,他に「吉野ヶ岳」の異名もある。登山道は一時期荒廃していたが,現在は山頂に直登する吉野コースの他,鎧ヶ峠や陶峠から稜線を伝うコースも開かれ,魚切山や狐ヶ峰への縦走も可能。

県道61号から西京高校前の市道に入り,山口JCTに向かって南下。正面に黒河内山を見ながら中国道をくぐり,山陽道に沿って道なりに進んでゆくと,小さな「大村益次郎の道」の標示板が現れる。この辺りが「小出登山口」。その先は細い林道となり,数百m先で溜池のほとりに出る。
林道は未舗装となり,石碑(道祖神?)の先で突然「終点」の標柱が現れるが,その後も広い道が続く。
小さな橋を渡り,なお歩きやすい道を進んでいくと,右手に「隊中様」と呼ばれる藤山佐熊(すけくま)の墓所が現れる。
佐熊は阿東嘉年の出身で,幕末の長州藩で結成された諸隊のひとつ「振武隊」に入隊し,戊辰戦争などに参戦した。
年号が明治に変わると,新政府は諸隊の過剰な兵力を整理しはじめたが,これに不満を持った諸隊の兵士約2千人が決起し,山口の藩政府を襲撃。佐熊もこれに加わったが,やがて政府軍に追い詰められ,1870(明治3)年2月9日に鎧ヶ峠で狙撃され死去。享年22歳。
実家が薬草を栽培しており医術の心得もあったため,振武隊では軍医として活躍。駐屯地では村人の病気を診るなどしていたことから,佐熊の死を悼んだ鎧ヶ峠付近の人々が墓を建て,いつしか「病気が治る」などのご利益が噂されるようになった。現在も年に1回,4月9日に供養祭が行われている。(当初は命日の2月9日に行われていたが,雪で参拝できないこともあったため4月に変更された)
今年も1月ほど前に祭りが行われたのだろう。墓地の周りはきれいに浄められ,小さな紙の幟が立てられていた。
隊中様を過ぎると道は一部で荒れはじめるが,特に問題なく鎧ヶ峠に到着した。
手書きの案内板によると,まっすぐ峠を下れば鋳銭司の両足寺,右の尾根を上れば黒河内山。左の尾根にも踏み跡があるが,その行く先は?
黒河内山への道は入口が狭く不安に感じたが,森の中は踏み跡がはっきりしており目印も多い。迷うことなく山頂に到着した。
山頂からは南に展望が開け,楞厳寺山,大海山,火の山などを一望。火の山〜陶ヶ岳は,この位置からは一個の富士山型の山に見える。
陶峠方面に少し進むと,道端に「平川」と刻まれた標柱(旧平川村の境界)が立つ410mピーク。近くの木の枝に「天狗岩山」の札がぶら下がっていた。
天狗岩山から少し下ると385mピークとの鞍部に差しかかる。ここから尾根を外れ,南に急降下。
5分ほどで鞍部に着き,再び急坂を上り返して着いたピークが魚切山。山頂からは北に山口市街が(維新公園から県庁あたりまで)一望でき,陶峠側に少し下ると黒河内山と同様に南側を一望できる展望地もある。黄砂のせいか,遠くが霞んでよく見えないのが残念。
魚切山から陶峠の下りはロープの付けられた急斜面で,滑りやすいところもあるので十分注意したい。
傾斜が緩やかになるとまもなく陶峠に出る。合流点から陶方面に10m足らずで,対面の尾根に上る分岐標識がある。
「馬頭観音」の下に手書きで「キツネ峰」。登山道はこちらも充分に踏まれている。狐ヶ峰への分岐案内はなぜか「白紙」なのが気になるが・・・
分岐からいったん左に急坂を下り「馬頭観音」に参拝。引き返して狐ヶ峰へ。
山頂からは山口市街方面がわずかに見渡せるが,木々の丈が伸びて視界を遮るのも時間の問題のように思われた。
地形図に道は描かれていないが,山頂から北に踏み跡が続いており,これを辿ってゆくとやがて鉄塔の立つ開けた場所に出る。鉄塔の脇を抜け樹林帯に入り,少し上ると小さな標識があるだけで見晴らしもない伽藍山山頂に到着。ここから鉄塔まで引き返し,明神溜池への下山路に入る。
明神溜池までの道は中国電力の鉄塔巡視路となっている。踏み跡もしっかりしているが,1ヶ所だけ右折して上り返す場所がある。そのまままっすぐ下ると道がなくなってしまうので注意。中電の標柱に矢印が書かれているので確認を忘れずに。
下りの途中にも鉄塔の立つ広場があり,黒河内山と魚切山を一望できる。眺めを楽しんだら再び林間の斜面を下り,10分ほどで明神溜池前に出る。