山名/標高 霊亀山(れいきさん)/367m
登山日・天候 2015年3月7日(土)・曇
行程 道の駅津和野温泉(11:15)〜鷲原八幡宮(11:20)〜中荒城跡(11:45)〜三重横堀(12:00)〜本丸城跡(12:05-12:15)〜中国自然歩道〜太皷谷稲成神社前(12:40)
津和野の町を見下ろす霊亀山の上に今も石垣が残る津和野城は,1282(弘安5)年に地頭としてこの地に赴任した吉見頼行により,蒙古の再度の襲撃に備える砦として,霊亀山南麓の鷲原八幡宮の裏手から築城が開始されるとともに拡張を続け,1324(正中元)年に完成。吉見氏14代の居城となった。なお,城の呼び名は築城時から室町時代後期までは三本松城(一本松城)であった。
戦国時代になると吉見氏は大内氏に属し,大内氏滅亡後は毛利氏傘下に入って引き続き津和野城を居城としたが,関ヶ原の戦いにおいて西軍の総大将となった毛利氏が敗れ,防長2か国に押し込められた際,津和野を退去して萩に移住した。
吉見氏に代わって城主となった坂崎直盛により,石垣を多用した近世城郭へと大改修が行われ,出丸や天守も築かれた。1616(元和2)年のいわゆる「千姫事件」で坂崎氏が改易となった後は,亀井政矩が入城し,山麓に居館(津和野藩邸)や外堀が設けられるなどして城下町が整備された。その後明治維新まで11代にわたり亀井氏の居城となった。
1871(明治4)年,廃藩置県により廃城。城郭は商人に払い下げられた後解体された。1942(昭和17)年に国史跡に指定。その後2度の追加指定が行われて史跡範囲が拡大した。日本100名城のひとつ。

中学校の遠足で登って以来,30数年ぶりとなる津和野城址。
太皷谷稲成神社近くの観光リフトか登山道(中国自然歩道)を利用して往復するのが一般的だが,今回は南麓の鷲原八幡宮から自然歩道を縦走する周回コースとした。
発着点は,鷲原八幡宮に近い道の駅「津和野温泉なごみの里」。
道の駅から5分ほどで鷲原八幡宮。両脇に桜が植えられている流鏑馬馬場の先に社殿がある。
この八幡宮は,平安時代に豊前宇佐八幡宮の勧請により創建,その後吉見家初代頼行が鎌倉鶴岡八幡宮から再度勧請し,二代頼直が現在の場所に社殿を建立したとされる。
自然歩道は社殿に向かって左奥の山から入り,城址を経て稲荷神社に延びている。
(左)樹齢1000年を越える鷲原の大杉。

よく整備された自然歩道の途中に,1295年に当時の領主吉見氏が築いたと言われる砦「中荒城跡」の分岐標示がある。ここから左に分かれ,不鮮明な踏み跡を辿って雑木林の斜面を上っていくと,幾筋も掘られた竪堀の跡を見ることができる。さらに上って,頂上の城跡に到着。眺めはまったくない。
頂上からは北東に続く踏み跡を辿れば自然歩道に戻ることができる。

山頂の途中には他にも堀切や横堀の跡などがある。三の丸手前に「三重横堀」の案内板から,見に下りてみた。

(右)三重横堀手前にある東屋。もとは展望所だったのだろうか。いまは周囲の木が伸びてほとんど眺めはない。この東屋の先に三つの横堀跡が残っている。

案内板に戻り,少し進むと突然視界が開け三の丸石垣の側に出る。三の丸跡地に四等三角点(347.5m)。

さらに石段を上り,広々とした三十間台から赤瓦の連なる津和野の町を見下ろす。さだまさしの「案山子」の歌詞は,ここからの風景に着想を得て作られたとのこと。


「城跡から見下せば蒼く細い河 橋のたもとに造り酒屋のレンガ煙突」(「案山子」の歌詞より)
中央奥にある山は,島根・山口県境の高岳山(1041m)。十種ヶ峰はここからは見えない。
(左)地面に散らばる瓦のかけらは,明治6年に解体された城郭の名残か。

(右)石垣の周りにふきのとうがたくさん咲いていた。

本丸から下り,上り返して出丸に立つ。この先が観光リフトの乗降口となっているが,今回は少し引き返し,自然歩道を歩いて下った。リフトの下をくぐって,稲荷神社手前の登山口までは約1km。稲荷神社に参拝して道の駅までさらに約2km。
全行程の所要時間は約2時間だった。