山名/標高 岩国(いわくに)山/278m
登山日・天候 2004年3月19日(金)・晴
行程 錦帯橋駐車場(09:40)〜椎尾八幡宮(09:50)〜山頂(10:20)〜(折り返し)〜椎尾八幡宮(10:55)
岩国市と和木町の境界にある山。「万葉集」巻四、太宰少典山口忌寸若麿の歌「周防なる磐国山を越えむ日は手向よくせよ荒しその道」は、この山を詠んだ歌とされ(欽明路峠を指すとの説もある)、南麓に建つ椎尾(しいのお)八幡宮にも、この歌に因んだ言い伝えが残る。
山の足下には国指定の名勝「錦帯橋」が架かる錦川が流れ、城山または岩国山を背景にした優美な五重アーチ橋の姿は多くの人が目にしているが、山頂に天守閣のそびえる城山に比べ、見た目に地味な岩国山は意外にその名を知られていないのではないだろうか。

錦川河川敷(城山側)より、錦帯橋と岩国山。

昭和28年(台風による流失)以来となる全面架け替えが完了し、3月20日の「渡り初め」を翌日に控えた錦帯橋の見物を兼ね、岩国山と城山のダブル登山を思い立った。
渡り初め記念イベントの準備が着々と進む錦川河川敷に車を停め、まずは岩国山登山口のある椎尾八幡宮へ向かった。
県道112号線沿いのバス停から、錦帯橋を背に歩いて5分ほどで椎尾八幡宮。登山口は石段を上がり、境内を抜けた先の駐車場脇にある。
この八幡宮は寛永三(1626)年に、岩国二代藩主吉川美濃守廣正が、吉川家歴代の守護神である駿河八幡宮の神霊を現地に奉還すると同時に、山の東北部(現在の和木町関ヶ浜)椎尾地区にあった猿田彦神の祠を合祀し、新たに社殿を建立し「椎尾八幡宮」としたもので、吉川歴代藩主に崇敬されてきた。
猿田彦神は天孫降臨の折、道案内としてこの地を通り抜けるときに、岩国山の伊勢ヶ丘の峯でしばらく腰を下ろしたという因縁があり、古くから道中安全の守護神として旅人に崇められてきた。
文明十二(1480)年、諸国を行脚していた連歌師・宗祇(1421-1502)がこの山に差しかかったところ、神に無礼があったとして、乗っていた馬が倒れて進まなくなった。宗祇が里人に助けを請うたところ、里人は「此の神は人の不浄不敬を殊の外お咎めになるので、神意に背いたことを謝罪して祈りなさい」と答えた。宗祇が神前に額ずき心を込めて祈ると、馬は再び前に進むようになった。
このとき宗祇は万葉の歌をもじり「周防なる磐国山を越えむ日は手向よくせよ荒木楚の神」と詠んだ。以後、この神を荒競の神ともいい、神社の別名を「荒木曽神社」とも称する。
(「椎尾八幡宮縁起」より要約。右画像は登山道脇にあった祠。荒競の神か?)
駐車場の道を上がると、水道局の施設が目に飛び込んでくる。
「立入禁止」の看板の隅に小さく「←岩国山へ」の文字。
矢印に従って進むと、道は竹林の中を抜け、葉の落ちて明るい雑木林に出る。
登山道はよく踏まれており、悪場もなく歩きやすい。所々にある分岐には小さな標識が付けられているので、見落とさないように。
(右)城山と岩国城が枝越しに見える。
散りかけたツバキと、咲き始めたツツジ。枯れ草の下にはトカゲがかさこそと動き回る。林の向こうから町のノイズが小さく聞こえてくるのが、里山らしくていい感じ。子供の頃、よくこんな場所で遊んでいたような気がする。
(右)登山道の側に大きな反射板と鉄塔が現れたら山頂は間近。
三等三角点の立つ山頂に到着。
昭和63年発行のガイドブックには、山頂からは瀬戸内や四国の山々、北に西中国山地が望めると紹介されていたが、現在は周囲の木々が伸び、北の眺望はほとんどない。岩国市街や米軍基地の眺望はよい。
(左)山頂から南東の方向、市街地の向こうに米軍基地が広がる。条件が良ければ四国まで見えるのだろうか。ガイドブックには「石鎚山まで見える」とある。
(右)西の方、枝越しに岩国城を望む。

少し休んだあと、来た道を折りかえし、錦帯橋を渡って城山登山口へ向かった。