山名/標高 華山(げさん)/713m
華山は旧豊浦郡豊田町と菊川町(現在はともに下関市と合併)の境にそびえる山で、別名を「下山」、または「月山」「弥山」「大神山」とも呼ばれていた。山頂は東西2つに分かれ、二等三角点のある東の嶽はTVアンテナやレーダードームが立ち並び、車道も通じている。西の嶽は別名「伏拝の峰」ともいわれ、山頂に仲哀天皇殯葬(ひんそう=仮埋葬)所跡と伝えられる石の祠が祀られている。
仲哀天皇(帯中津日子命=タラシナカツヒコノミコト)は日本武尊の第二皇子で、「日本書紀」によると、九州へ熊襲征伐の遠征中、筑紫で病に伏し崩御したとされている。一方「古事記」には、新羅討伐の神託を受け入れなかったため神の怒りを買い、急死したと記されている。仲哀天皇の殯葬所とされる場所は、華山のほか下関市長府の忌宮神社にも存在する。この天皇の后が三韓征伐で知られる神功皇后、皇子がのちの応神天皇。
古来から霊峰として信仰を集めた山で、景行天皇、仲哀天皇が熊襲征伐に際しこの山に登り、戦勝を祈願したとされる。山岳霊場として開かれたのは奈良時代といわれ、最盛期には3000余の寺院を従えた「西の高野」として権勢を誇った。東の嶽山頂の下にある「岩屋観音」(神上寺奥の院)は、大同元(806)年に空海が自然石の観音像を岩窟内に祀ったのがはじまりといわれている。
その後、鎌倉時代に後鳥羽上皇の勅願により愛染明王がまつられ、後醍醐天皇の頃、現在の中宮の位置にあった大御堂が下宮権現の位置に下ろされ「豊浦山神上寺」と改称、山の呼び名も「弥山」から「下山」に変わっていったという。
東の嶽への登山道は、中国自然歩道として整備されている神上寺(じんじょうじ)からのルートが一般的で、ほかに南麓の徳仙の滝からのルートもあるが、いずれにしても開発の進みすぎた東の嶽は、展望は良いものの頂上の風景には興ざめしてしまう。
開発の手を逃れた静かな西の嶽へは、菊川町の自然活用村から登山道が延びているほか、東の嶽からの縦走も可能。

山 行 記 録
2006.01.08 神上寺から,犬の案内で雪の山頂へ。
2011.11.15 東の嶽〜西の嶽往復。


豊田町からの眺め。(2011.11)